11)現代
戦後から現代に至る経過はほとんどの地方が辿ったものとほぼ同様かと思います。ただ注目すべき点をいくつか記しておきたいと思います。
まず淡輪地区は南海本線が通っていると言う利点を活かし、観光開発と宅地開発を進めてきました。
戦後の観光開発は、旧淡輪温泉が「つつじ人形館」として再出発したことが始まりです。さらに地元と南海電鉄はこれを上回る大規模な公園構想を計画し、これが「みさき公園」であり、開園に先立つ1957年1月には「南淡輪」駅が改称され「みさき公園」駅となりました。また戦時下休止に追い込まれていた「大阪ゴルフ倶楽部」再開のためにもこの構想が促進されました。
1965年 スポーツ振興株式会社による「岬カントリークラブ」が開場。
1975年 府立青少年海洋センターがオープン。
1982年 淡輪海水浴場が開設。
1983年 長松・小島の両海岸が大阪府から「自然海浜保全地区」の指定を受ける。
1984年 淡輪ヨットハーバーが完成。
1994年 府営マリンロッジ「海風館」が開館。
以上のような進捗を見せ、大阪府下唯一の海洋レクレーション地区として脚光を浴びる事になりました。
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長松海岸 |
淡輪ヨットハーバー |
青少年海洋センター |
海風館 |
宅地開発は観光開発に遅れさかんとなりましたが、その進行は文化財の保存問題を浮上させることにもなりました。コウノ巣台団地造成による鴻ノ巣山古墳群9基中7基が破壊されてしまいました。このことが契機となり遺跡保存運動が始まり、破壊の瀬戸際である本書冒頭で述べた「西陵古墳」は町が買収を進め公用地となり、何とか破壊を免れ、文化財保護行政の進展が見られるようになりました。
スポーツと文化活動面では、1967年岬町体育協会が結成され、1976年岬町女子バレーボールチームが第25回全国青年大会で優勝した事ではずみがつき、運動広場があいついで整備され、スポーツ少年団も組織されました。そして後に淡輪海岸を活かした「ビーチバレーの町」につながって行く事になります。
文化活動では、1972年10月に開館した町立淡輪公民館、1983年に創立された岬町文化協会があり、ユニークな活動を展開しています。
医療・保険衛生分野では、1960年から国民健康保険制度が全町実施となり、1977年総合福祉センター、1982年淡輪老人福祉センター、1980年簡易心身障害児童園施設「こぐま園」、1982年身体障害者共同作業所「さくら園」が開設されました。
また誰もが住みよい街づくりをするため、1976年人権擁護都市宣言、1978年世界連邦平和都市宣言、1982年覚せい剤禍撲滅推進都市宣言、1984年非核平和都市宣言がなされ、1985年には町民憲章を制定しました。
その後、関西国際空港開港に伴い、大阪府により箱作から淡輪海岸にかけて「せんなん里海公園」が整備され、公園内にはビーチバレーの国際大会ができる「潮騒ビバレー」などの競技場も出来、現在女子ワールドカップが毎夏開催されています。
また例年淡輪海岸では、春には潮干狩り、夏には海水浴場を開き、自然と直接触れ合える機会もあり、里海公園・淡輪遊園(愛宕山)・みさき公園では小さいお子様からお年寄りまで家族一緒に四季豊かに楽しめます。ヨットハーバー・海洋センターなどの施設により体験型のレジャーも可能なため、年齢層に関わらず楽しむことができる地域となりました。健康のためにも、周辺の旧跡や寺社、自然の豊かな山や海も含め、歴史の道を歩くことにも楽しみを見出すことができる地域になり現在に続いております。
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案内板を元に岬町の歴史ウォークを楽しみましょう。左は淡輪地域の白峠山古墳近くにある「夕野池」の説明板。第11代垂仁天皇第2皇子五十瓊敷入彦命の古墳が淡輪にあることは、先のページで案内しておりますが、その皇子の弟が後の第12代景行天皇であり、その景行天皇がこの池で父と兄とで遊んだ事が記されています。そして景行天皇の子が古代英雄の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)であり、興味を引かれます。ここから奈良市の垂仁天皇陵や羽曳野市や御所市の白鳥陵へ後日ウォーキングの足を伸ばすのも一興と思います。 |
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崇神天皇(前出)陵 比定 |
垂仁天皇陵 比定 |
景行天皇陵 比定 |
日本武尊の陵墓と比定 |
行燈山古墳(天理市) |
宝来山古墳(奈良市) |
渋谷向山古墳(天理市) |
白鳥陵(羽曳野市) |
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案内板を元に岬町の歴史ウォークを楽しみましょう |
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