(はじめに)
淡輪の歴史は、岬町・岬町教育委員会発行(編集:岬町の歴史編さん委員会)の「岬町の歴史」や、岬町の歴史を探る集い発行の「みさき風土記」に詳しいので、詳述はそちらに譲るとして、ここでは岬町の歴史の中でも主に淡輪地区を中心に絞り記載します。観光等に役立つような歴史情報になればよいと考え作成しましたので、純然たる歴史書ではないことを申し添えておきます。
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歴史自体と更に詳しい情報は、上記紹介の2冊や、インターネット等からでも知ることができますので、そちらでの参照をお願いいたします。 |
※2) |
当ページも、上記2冊を中心に作成しました。 |
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歴史上のことは古くなるほど確定されていないことが多く、時代区分や年代は本文記述必要上、まず一般論または1つの説を代表として使用しました。次に上記2冊から引用しました。年代等は記述上の1つの「めど」としても扱っております。本書性格上、各諸説に特に組しておりませんし、こだわっておりません。 |
※4) |
表現としての漢字や人名も上記注釈3と同じような考え方で記述しています。 |
(前文)
当地大阪府泉南郡岬町淡輪は、その大阪湾の出入り口、紀淡海峡近くにある、古くは「和泉の国」と呼ばれた地域の中の1つです。
大阪湾は古来、「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれていました。この「ちぬ」はまた「血沼」とも書かれ、神武東征の際、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ 初代神武天皇)の兄、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)が、難波から河内に入るとき、地元の豪族
長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、戦傷を受けその血がこの海に流れた故事に由来するといわれています。
その「ちぬの海」の南に位置するのが、この地、岬町淡輪です。
※ 蛇足ではございますが、当地方では黒鯛のことを「ちぬ」と呼ぶことがあります。
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彦五瀬命陵墓と比定の竈山墓 |
竈山墓 説明書(拡大) |
水門吹上(みなとふきあげ)神社 |
和歌山市和田にあり宮内庁管轄の円墳。隣に竈山神社がある。 |
紀州 雄湊(おのみなと)に在。 |
「日本書紀」では、神武が橿原の宮で即位した年を辛酉(かのととり)紀元前660年のこととしておりますが、紀元前660年といえば縄文時代晩期(最近の炭素年代測定では弥生時代)とされる時代で、詳細な年次や事件の内容の伝わることは考え難く思います。神話と歴史を混在させる事を旨とはしませんが、これにて次に延べる部分と相まって当地方のおおまかな時代の始まりが推量できるかと思います。ちなみに史実は、
紀元前107年 倭は100余国からなる。中国王朝に定期的に朝貢。(弥生時代)
紀元57年 倭奴国が後漢から金印を授与される。
紀元239年頃 卑弥呼が中国三国時代の魏から称号をもらう。(3世紀)
紀元300年頃 大規模前方後円墳が出現する。(弥生に続き古墳時代となっている。)
紀元413年頃 倭五王初代、讃(17代履中天皇 応神・仁徳説あり)が東晋に朝貢。(履中は仁徳の子)
紀元507年頃 実在が確実と言える第26代の継体天皇の時代(〜531)。(6世紀)
となっており、紀元前660年はおろか、紀元前107年の時点でもまだ国は統一されていなかったことになります。「空白の4世紀」と呼ばれる前後に大和朝廷が成立したという見方が通説のようです。
いずれにせよ、古墳時代が古代国家成立に向ける前夜と考えられそうです。この辺のことも含め史実には論争も多く、畏れ多いのであまり近づきたくはありません。
大規模前方後円墳 |
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伝 応神天皇陵(羽曳野市) |
伝・第16代 仁徳天皇陵 |
伝 履中天皇陵(堺市) |
継体天皇陵らしい |
誉田御廟山古墳 |
大仙古墳(堺市) |
上石津ミサンザイ古墳 |
今城塚古墳(高槻市) |
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