2)平安時代
古代の当地方においては、紀州に分布していた豪族紀氏との関係が多く見受けられます。その1つが西陵古墳の被葬者の候補でもみられました。「和泉志」によれば、淡輪村西に792年に亡くなった紀朝臣船守(731〜792)の墓があるとされています。しかしそれ以上のことはわかりません。船守の墓が和泉国にあったと言う事実は、紀氏と和泉の関係を示唆するものと考えられます。
船守は、764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、仲麻呂追討を命じられ、追討後に土地を賜っていることから、何らかの官職についており、かつ功績があったものと推せられます。後、軍事関係官職、造長岡官吏を歴任し、亡くなる直前には正三位大納言までのぼりつめ、没後に正二位右大臣を追贈され、桓武天皇より寵愛を受けていたことがわかります。
墓はわからなくなっておりますが、船守神社が淡輪にあります。名の通り紀船守を主祭神とする神社です。社伝では911年醍醐天皇の勅命で創建されたとあります。「船守神社縁起」(船守神社蔵)では祭神は船守の他、青龍権現と五十瓊敷命があげられています。青龍権現については紀小弓の霊ではないかと注釈が加えられています。
以上全面的に信頼できる資料はないものの、現「岬町域」と紀氏の本拠である「紀伊」は古い段階から紀氏の勢力が及んでいたと考えることができるかもしれません。
和泉国が誕生するのは、645年大化の改新(乙巳の変)を経て、701年大宝律令が完成し、その律令制の導入の前後する716年のことでした。それまでは岬町域は河内国に属しておりました。「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、同年4月19日大鳥・和泉・日根の三郡を割いて「和泉監(いずみげん)」が置かれています。「監(げん)」とは国とは違い、離宮の造営・運営を目的とし、他に吉野があるだけの特殊な行政単位ですが、ここで初めて和泉地域の独自性が認められたことになります。「和泉監」が担当した離宮は「珍努宮(ちぬのみや)」で、740年には再び河内に吸収されましたが、757年に5月8日再度和泉国が河内から分立いたしました。なお律・令・格・式の「延喜式」の中では下国に位置づけられました。
平安時代の終わりごろより荘園が作られ、1206(建永元)年「門葉記」にて、和泉国の荘園としての山門慈円相伝所領が見受けられます。※荘園については次章。
文化関係においてはどのようなものがあったかをみていきたいと思います。
古代には貴族や上級武士によって、仏教信仰が広まり、多くの寺院が建立されましたが、岬町域で奈良時代の寺院は未だ発見されておりません。しかし平安時代になると、多奈川地域の興善寺、深日地域の弥勒寺が文献に見え、平安後期には淡輪に医王寺が軒瓦の発掘によって建立されたことが明らかになりました。また役行者(役小角)を祖師とする修験道ゆかりの行場としては和泉山脈の飯盛寺(廃絶)や大福山があげられます。この稜線上に後述するお菊山もあります。
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和泉山脈井関峠近くからの淡輪海岸方面 |
大福山山頂の弁財天 |
文学関係では、万葉集に「われも思ふ人もな忘れ淡輪の浦吹く風の止む時なかれ」(606 笠郎女作)がおさめられています。
さらに平安時代を代表する歌人の紀貫之(?〜945)の「土左日記(とさのにっき)」によりますと、土佐から任を終えて帰京する際に、和泉の灘(岬町多奈川付近)を通り過ぎたことが記載されています。翌日には一行の船は「黒崎の松原」を過ぎて「箱の浦」に到着しています。紀船守の5世の孫に当たる貫之は紀氏ゆかりの地を通る事に感慨をもっていたようで、「土左日記」は平安時代の岬町の様子を伝える数少ない資料と1つと言えそうです。
次に夫の橘道貞が999年に和泉守に任ぜられた事から和泉式部と称されるようになった平安時代中期の代表的な歌人が有名です。彼女自身が和泉国にやってきたかどうかは定かではありませんが、和泉国内には彼女の旧跡と言うものが三十余りあるということです。
その他著名な伝説に淡輪域外のことではありますが、岬町の孝子(きょうし)に嵯峨天皇・空海と並ぶ三筆の一人である橘逸勢とその娘妙冲の墓石が残されています。一説によりますと、失意のうちに亡くなった父の亡骸を遠い関東より岬町に移し丁寧に葬りその後を供養した孝行娘のことから、ここが孝子という地名になったといいます。
●橘逸勢 墓石
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●橘逸勢
の娘
妙冲
の墓石
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●墓石の
位置案内
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