3)鎌倉時代
源頼朝の叔父にあたる源行家は源平争乱の登場人物の中で岬町にいささか関わりを持った人物です。彼は以仁王の平氏追討の令旨を反平氏勢力に密かに伝えるその後の平氏滅亡へつながる歴史の展開にとって重要な役割を果たしました。木曽義仲軍と呼応し、京都へ攻め上り、平氏を西国に追い落としました。その後平氏追討の途につきます。ところが播磨国で惨敗し、からくも和泉国吹井浦へ逃げ延びました。この吹井浦が現在の岬町深日地区であろうことは言うまでもありません。そこで再起を果たし、範頼・義経軍とともに義仲の討伐、平家の追討のあしががりとしました。しかしその後頼朝と義経・行家との間で争いが起こり、京都を追われたときにまず頼ったのが和泉国でありました。逃げる途中に義経と別れ、約半年後現在の岸和田市辺りで潜伏中に捉えられ、子息光家とともに斬首されました。
この源平の争乱にも見られるように、岬町周辺も中世社会の幕開けと不可分に結びついていたことがうかがわれます。
基本的に土地の私有を認めなかった律令制度でありましたが、古代地方制度は、大寺社や中央貴族(権門)の領地であった荘園によって徐々に切り崩されていき、11世紀中ごろから12世紀の院政期をさかいに律令制度そのものが変貌をとげていきます。源平の争乱や行家という人物でもみてきたように、岬町周辺も中央の変革と結びついていたため、この波に抗えるものではありませんでした。
岬町淡輪地区では、淡輪庄という荘園が成立しており、鎌倉初頭での荘園領主は、比叡山延暦寺とその末寺をおさめる天台座主を輩出する青蓮院の門跡が「本家」、摂政関白を出す九条家庶流の人物が「領家」であり、その「預処」に青蓮院の門弟または九条家の家司(家政機関の役人)が任命されていたようです。
この淡輪荘草創期にとりあげるべき人物は、平安末期から鎌倉時代にかけ活躍し、著名な「愚管抄」を著した当代随一の文化人で知識人であった天台宗高僧慈円です。慈円は関白藤原忠通の子で、九条家(五摂家の1つ)を開いた九条兼実の実弟です。2歳で実母の加賀と死別したため、権中納言藤原経定(堀川家祖)の未亡人禅尼に育てられ、彼女の死に際して彼女から淡輪庄を含む4つの荘園を譲られました。禅尼は権中納言藤原通季(西園寺家祖)の娘で、父から相続したようですが、淡輪庄の成立時期とその背景事情は現在のところ不明です。
その後慈円は修業・修学に努めた事は言うに及びませんが、摂関家輩出という出目にも助けられ、青蓮院門跡でもあり慈円の師匠から青蓮院門跡を譲られ、頼朝の信任を得た兄兼実が摂政関白という政界の頂点を極めたのと相まって、38歳の若さで天台座主の地位につきました。こうして淡輪庄は慈円の跡を継ぐ青蓮院門跡が荘園領主権(本家)を継承して行く事になりました。
慈円は後継を愛弟子である後鳥羽上皇の皇子、朝仁親王(法名:道覚法親王)としましたが、1221年慈円66歳ごろ、承久の乱により門跡の継承問題は白紙に戻ってしまいます。そこで兄兼実の子でやはり弟子であった良快に死後を託します(1225年慈円享年71歳)。後、良快はその弟子、滋源(良快の甥の関白九条道家の子)に、青蓮院門跡をいったん譲った上で、慈円との約束通り道覚法親王に青蓮院門跡を譲ります。同時に淡輪領主権(本家)も譲られていったと考えられています。
一方承久の乱前後の混乱の時期からでしょうか、いったん門跡の所領として寄進されてた淡輪荘園領主権からその一部が分割され、慈円や門跡代々に縁の深い九条系の人物が「領家」として |
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[ 京都 青蓮院門跡 ] |
荘園領主権を握っています。1228年の淡輪文書には淡輪荘下司左衛門尉兼重の非法を禁じた内容があり、1233年の淡輪文書によってもこの兼重の非法を止めているのが領家の前左大臣九条良平(九条兼実4男、慈円の甥、良快の兄)であることがみえます。
この兼重は地元土着の武士(在地領主)だったようで、頼朝の文書を持っていたことからみて頼朝の御家人に組織されていたと考えられます。兼重の横暴は地元武士としての自己の立場をより不動のものとするため、淡輪庄の地頭の地位を得ようとした行為であったようです。地頭とは承久の乱後に新しく設置されたもので、下司の身分の兼重が地頭としてふるまおうとしたようですが、どうやら良平によって妨げられ、彼は以後歴史から消えてしまいます。代わってあらわれるのは、やはり現地の有力者刑部丞橘重基(重元)です。
1237年には良平によって、後の淡輪氏の祖、橘重元が淡輪庄の公文職(現地実務荘官トップ)に任命されています。淡輪庄の年貢課役は本家への負担が意外に少なく、九条家庶流が相伝した負担が主だったようで、権限も領家が強かったようです。後に公文をはじめ、荘官職の任命権等をめぐり、本家領家の間で対立があったようですが、ともかく淡輪庄は本家と領家の二重支配であったようです。1262年の淡輪文書によると、橘重元が改めて「東方」の公文職に任命しなおされており、このことからこれ以降淡輪庄は「東方」「西方」に分割されて支配されていたことがわかります。この東西分割の契機は、本家領家の対立からか、このころ起こった青蓮院門跡の相続問題の抗争からか、現地の新たな開発からかは、今のところはっきりしたことはわかっておりませんが、その後南北朝時代に至るまでこの分割支配は継続され、それぞれ別々に荘官が置かれ、各々に荘園領主がいてその権利を継承していきます。
ともかくこの橘氏は淡輪庄東方公文職を代々相続し、ここを足がかりに実力を蓄え、鎌倉時代の末には荘園名の淡輪を名のるようになり、ついには和泉国御家人として泉南地域切っての有力武士に成長して行くことになります。
※和泉式部の夫で和泉守であった橘道貞、三筆の一人橘逸勢、今見た淡輪庄の公文職で淡輪氏を名乗り始めた橘重元、というように和泉国は源平藤橘の四賜姓の1つである橘姓の縁が深い。後に出てくる楠木正成も橘氏の後裔というが、ただしその真偽は定かではない。
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