8)明治時代
1868年1月 明治政府は摂津・河内・和泉の旧幕府領を管轄する大阪鎮台を設置。
同年5月 大阪鎮台は大阪府と改称。
同年6月 大阪府から和泉を分離し堺県が誕生。大阪府から河内を分離して河内県誕生。
同年8月 堺県が河内県を合併。 同年9月 (慶応4年9月に明治と改元)
1869年3月 版籍奉還で岬町域の土浦藩主は知藩事となる。藩はそのまま存続。
1870年閏10月 土浦藩飛地領は堺県に編入される。
1871年7月 廃藩置県で府県制が実施され、藩は県と称する。旧藩主(知事)罷免。
同年11月 河内・和泉全域を管轄する堺県が誕生。
1872年2月 堺県は県内を54区に分け各区に戸長/副戸長をおく。岬町は第25区になる。
同年4月 戸長/副戸長は区長/副区長になる。区長は選挙で選ばれるが県の任命が必要。
1874年1月 区政が大区小区制に改められ日根郡は3大区の1つに属し、
その下の第5小区の中の6番組が淡輪村となる。
1876年 堺県が奈良県を合併。
1878年 法が改正され、大小区が廃止となり、それまでの町村の区域名称に戻る。
1881年 堺県が廃止され、大阪府に合併。
1889年 大日本帝国憲法発布。それに基づき市制・町村制が施行。
岬町域は「大阪府日根郡」多奈川・深日・孝子・淡輪の4カ村になる。
1896年 日根郡は泉南郡と称する事になり、ほぼ現在の行政区域と呼称ができる。
以上より、維新後の地方行政は朝令暮改のありさまであることがわかり、中央集権を急ぐための制度の改変が相次ぎました。それを強制された地方行政はめぐるましく動き、当然混乱は生じました。が、ようやく近代的な行政へ一歩進めることが出来るようにもなりました。
さて歴史を支えるものの大きな1つに経済という見方があります。これまでの律令制や荘園制、淡輪氏の動きを通して財政や収益と言ったものが歴史を動かし、彩ってきたと言う一面のあったことがわかります。
明治に入ってからは、新政府にとって「地租改正」という大きな試練が待ち構えていました。当初新政府を支えるものは田畑貢米が中心で、旧体制の年貢制が踏襲されましたが、新方針に舵を切り始めました。まず田畑勝手作りを許可して、耕作を自由化するとともに、田畑永代売買禁止制も解いて、売買・譲渡の土地に地券を交付することにしました。
続いてすべての土地に地券を交付する事にしました。これは財政の根幹である地租を改正する目的がありました。
次に明治になってからの特筆すべき1つの教育ですが、江戸より続く寺子屋風の私塾が一般庶民の学問所でした。文明開化で国を繁栄させる目的で、1872年4月堺県は私塾を禁じ、市郡制法を公布します。この方針に則り、第25区では淡輪西教寺に郷学校を置き、箱作・深日などを含む5箇所に出張所を設けました。教師は寺子屋などで子女に読み書きを教えていた旧士族やそれぞれの寺の住職であったようです。
同年8月文部省布達第13号をもって学制が発布され、一般庶民も等しく教育を受ける機会を得ることになりました。しかし初めてこの地に小学校が開設されたのは翌年6月で、淡輪村の子女は箱作村にできた第32番小学に通学する事になります。しかし子供にとって遠方になり不便な事から、1874年10月には淡輪村に第46番小学校が開校しました。この番号制の小学校は翌年村名を冠した名称に変わりました。「村に不学の戸なく、家に不学の人なしからむ」とした学制も現実には当地域でも5割を切る就学率で現在とは比べものにはまだまだならなかったようです。
1886年小学校令が出され、6歳から14歳までの学齢児童に尋常小学4年か、小学簡易科3年の普通教育を受けさせることを父母保護者の義務としました。1890年教育勅語が発布されるのと前後して簡易小学校は廃止され、尋常小学校・高等小学校となります。
小学校令はいくたびか改正されましたが、1900年の改正は画期的なものになりました。まず個人負担の授業料は徴収しないことになり、急速に就学率が高まります。学期はじめが4月になったのはこの時からです。また小学校令による高等科のある尋常高等小学校が1906年に淡輪に併設されています。翌年改正小学校令により、尋常科6年高等科2年と定められ、戦後の6・3・3制になるまで続くことになりました。
それでは明治に入り、交通についてはどうだったでしょう。
1884年(明治17)に設立された南海電鉄の前身「大阪堺間鉄道会社」は翌1885年に「阪堺鉄道会社」と改称し、鉄道を大阪市から大和川北岸までまず開通させました。大和川に鉄橋が架けられ、堺の吾妻橋(現堺駅の近く)まで開通したのは1888年5月でした。堺から以南は南海鉄道会社が延伸をし、1897年堺・尾崎間が、年末には難波・尾崎間が直通しました。紀泉鉄道と紀阪鉄道が合併してできた南海鉄道は、翌年阪堺鉄道を合併し、孝子峠のトンネル工事に着手し、尾崎・和歌山市北口が結ばれました。開通当初岬町域の停留所は深日駅だけで、他の村は徒歩で深日まで行くか海上を船で行く必要がありました。1903年(明治36年)3月紀ノ川に橋がかかり和歌山市まで開通しました。(複線化が大正11年)
|
|
|
|
南海電鉄紀ノ川橋梁(向って左が明治36年、右が大正11年) |
同年8月大阪朝日新聞で筆をとっていた西村天囚が約2週間深日淡輪に来遊し、「海風」というレポートを記載し、新聞を賑わします。結果、大阪市中の人々に岬町の景勝・人情・歴史的遺産を知らしめ、俗化していない村々として有名になりました。そのころ淡輪には駅はなく、箱作で下車し、村営連絡舟便で淡輪海岸に着きました。西村天囚によって賛美された景勝地に、大阪の人々が往来するようになったので、翌年夏には淡輪黒崎海岸に「海水浴場」が開設され、観光地として南海鉄道も注目し始めました。1885年関東の保養地大磯海岸に日本で初めて海水浴場が生れてから19年後のことでした。
また南海鉄道4代社長大塚惟明はまず全線電化をし、1910年淡輪に資本を投下し、淡輪遊園の開発に乗り出します。淡輪駅も作られ、旅館を山上にすえ、簡易水道を施設し、文明開化の先端を行く開発を始めました。
|
|
つつじがきれいな淡輪遊園 |
淡輪駅 |
|
|