6)織豊時代
この時代に現岬町関連が出てくるのは、石山合戦の時からである。
天正4年(1576)まず石山本願寺攻撃にあたり、信長が摂津城主荒木村重に与えた黒印状に「佐久間信盛や淡輪氏らとともに準備をすることが肝要である」とあります。また当時紀北・泉南地域一帯に勢力を伸張した根来寺を後ろだてに本願寺を支える鉄砲集団雑賀一揆の紀州攻めにおいて、信長自ら淡輪まで馬を進め鈴木(雑賀)孫一の居城を攻めたことがわかります。結局雑賀衆は信長の前に屈服します。信長は佐野に要害を築き、淡輪徹斎に「紀州で変事があればすぐに知らせるように」と佐野城番の織田信張(信長の義理の従兄弟)に伝えた書状を残しています。信長は天正7年に信張と蜂屋頼隆に和泉の支配を任せ、信張は岸和田城本丸に入ります。
本書平安時代中葉で述べた役の行者ゆかりの大福山や飯盛山の修験道場はこの時の根来寺への攻撃に伴い、豪壮な七堂伽藍を失い今日に至ることになるのです。
ところでいったん詫びを入れ降伏した雑賀衆が半年も経たないうちに反旗を翻します。この知らせを水軍衆として活躍した淡輪徹斎と淡輪大和守は信長に報告しています。前回木津川口の戦いで毛利水軍に破れた信長は今回は鉄船をつくり、九鬼水軍によって雑賀衆の船団と相まみえこれを撃破し淡輪に着岸します。これら情報も淡輪徹斎と淡輪大和守が信長に報告していたことがわかっています。これにて大阪湾の制海権も信長が握り、石山合戦は事実上本願寺の降伏で講和が成立しました。
石山合戦は終結しましたが、2年後には和歌山鷺ノ森別院に退いた顕如に織田勢が押し寄せる事になります。このとき根来寺の影響下にあった深日の寺社などは村民ともに紀州に南進する織田勢に抵抗する事になりますが、現在国道26号線沿いにある大阪ゴルフクラブの入口に立てられている「灰賦峠」がその辺りではないかと言われています。村人たちはかまどから持ってきた灰を撒き散らし目潰しをしながら石を投げかけるゲリラ戦法で織田勢を阻んだようです。それでこの辺りが灰賦峠、あるいは灰振峠・灰吹峠と呼びならわされて現在に至っています。織田勢が深日まで攻めてきた事を知った顕如は死を覚悟したようですが、本能寺の変がおこり一命を拾うことになります。
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ゴルフ場入口付近の「灰賦峠」説明板 ●拡大● |
紀州 本願寺 鷺の森別院 |
本能寺の変が起こり、跡目争いで秀吉と家康・織田信雄の間で天正12年小牧・長久手の戦いが始まると、家康に通じた根来・雑賀衆は岸和田城を攻めました。この時和泉国衆は残らず岸和田城で備える事になり、淡輪徹斎と淡輪大和守にも下知されています。
後、家康と講和した秀吉は畿内で最後の敵対勢力となった根来・雑賀攻めを始めます。すぐに紀州全域を制圧した秀吉は秀長(秀吉弟)に和歌山城の築城を命じ、紀伊・和泉の支配は秀長に委ねられました。秀長死後は変遷はあったものの、慶長3年(1598)に豊臣家の直轄領となっていたことが知られています。
次にこの時代では、淡輪徹斎の娘と伝えられる「小督局」について記しておきたいと思います。彼女は秀吉から関白を譲られた豊臣秀次の側室でした。秀次が三条河原で処刑された時、秀次の正室以下子女妻妾が次々と首をはねられ、その数38人とも39人とも伝えられ辞世が残されています。この中に彼女の辞世もあり、「生れきて 又かへるこそ みちなれや 雲の往還や いともかしこし」21歳 であったと記されています。
この時淡輪家も連累して所領が没収されてしまいます。
時代は下り、慶長19年(1614年)から始まる大坂冬の陣での当地方の関係を述べたいと思います。当時大阪城には真田雪村や長宗我部盛親らとともに、淡輪徹斎の次男淡輪六郎兵衛重政の姿もありました。秀次事件連座のあと、重政は同郷のキリシタン大名小西行長の家臣となっていましたが、行長が関が原で負け処刑されてからは、淡輪主家も滅亡し浪々の身となり、慶長9年秀頼の招きで大坂城に入りました。入城後は足軽50人を預かり、片桐且元退場後、城内一となった大野治長の弟大野主馬首治房の組に属していました。兄の新兵衛重直(重利)が浅野家に仕えていた一方で、重政は旧領回復を目指して豊臣方に属していたのです。
この後大坂夏の陣となり、慶長20年4月29日泉南樫井付近で前哨戦が行われ(樫井川の戦い)、徳川方の和歌山城主浅野長晟の北上を阻止すべく大野隊らが出撃しました。この樫井合戦には大野治房の組下になっていた淡輪六郎重政も参加することになりました。しかし彼は目覚ましい働きの末、永田治兵衛に首を取られ討ち死してしまいます。現在その地に彼の宝筺印塔が残されています。重政25回忌にあたる寛永16年にその末裔奥州会津藩士本山三郎右衛門直昌が故郷淡輪にて石材を求め造立したとして伝えられています。末裔がなぜ泉州から会津に至ったかという事を考えるのも面白いですね。
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樫井川畔の古戦場の史跡 |
淡輪六郎宝筺印塔 ●説明板● |
また先述した「小督局」に関連して、夏の陣では「お菊」の秘話が伝わっています。実は関白秀次と小督局の間には既に一女があり、秀次家臣大谷刑部の尽力で命を助けられ、母方の祖父淡輪徹斎に引き取られたというものです。彼女が淡輪家にいたのではいつ追求の手が伸びるかもしれないので、淡輪家に養子入りした徹斎の実家である現阪南市波有手村の後藤六郎兵衛興義の家に養女として預けられました。お菊と名づけられ成長した秀次の娘は、紀州名草郡山口村の山口喜内の嫡子兵内に嫁ぎました。山口家は豊臣家と通じこの辺の紀州郷士たちと徳川方紀州藩主浅野家に一揆を企てていたため、喜内は大坂城に入りました。新妻お菊は義父喜内の密書を持って大坂城との間を往復し、兵内からの密書を樫井川で失ったと伝えられます。戦後このことからお菊は浅野家に捕らえられ、紀ノ川田井ノ瀬で斬首されたといいます。そのお菊が通った紀州と泉州を分ける和泉山脈の山道にお菊山とお菊松があり、今はハイキングコースとなり、後藤家の菩提寺阪南市鳥取の法福寺にはお菊の碑と木像が残されています。
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紀ノ川 田井ノ瀬 |
田井ノ瀬河原(背景の山がお菊山がある和泉山脈) |
和泉国では天正13年(1585)の根来・雑賀攻めの直後に検地が実施されと伝えられますが、文禄3年(1594)北政所ねねの義弟で豊臣家5奉行の一人浅野長政らが太閤検地を実施したことは資料によって確認できます。検地は刀狩と並ぶ重要な政策で、それまでの複雑な土地関係が整理され、自立的な経営が促される一方、身分が固定され支配される事になります。この秀吉の政策は基本的には徳川幕府に受け継がれましたので、明治維新後の地租改正までのおよそ300年にわたる土地制度と税制度の基礎となりました。
なお岬町域は慶長15年(1610)に秀長の後を受けて領主となった大和御所藩主桑山伊賀守元晴によって検地が実施されましたが、以降江戸時代を通じて全面的な検地は実施されなかったので、時代が下るほど名目石高と実際の生産高は大きく開いていきました。
これで淡輪・深日・谷川などの庄域が村となり、それぞれ独立した行政単位となり、明治の市町村制に至ることになります。
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