淡輪 ときめきビーチ   本文へジャンプ
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 はじめに  前文  先史〜縄文・弥生〜古墳 時代
 〜平安時代  鎌倉時代  南北朝時代  室町時代
 織豊時代  江戸時代  明治時代  大正時代
 昭和時代  現代
4)南北朝時代

 和泉国では当初から南朝諸勢力が強い影響力を持っていました。建武政権の樹立に大きな役割を果たした後醍醐皇子の大塔宮護良親王が活発に活動を展開したり、楠木正成がまだ悪党とよばれていた頃から大きな影響力をもち、建武政権の下では和泉国守護にも任じられていました。また南朝にとっては和泉国は河内や紀伊とならんで、本拠地吉野を囲む防衛ラインでもあったため、正成死後も楠木一族に国司・守護の地位が与えられていました。一方北朝側も足利一門の畠山国清を抜擢し、切りくずしのため現地武士の組織化をはかったので現地の武士も南北両派に分かれ、ほぼ南北朝全時期を通じ勢力が拮抗し、激戦の地でありました。そしてこの動乱は現地武士が地域社会で更に支配を拡大する機会でもありました。
 現地武士集団の1つであった淡輪氏が活動をおこしたのは、まだ形勢が見通せなかった1333年5月に鎌倉幕府に見切りをつけ、後醍醐天皇の密書によって、足利尊氏が六波羅探題を攻略した際で、淡輪右衛門五郎正円は早くも同月11日に尊氏の陣営に参加しています。この時勢を読み取った機敏な対応により軍功をあげ、1334年4月25日、建武新政権下で、国司から「淡輪庄東方下司職」を安堵されました。これがその後の淡輪氏が現地領主としての礎を築いたものと思われます。これ以降の南北朝内乱の渦中でたびたび合戦に参加し、勇名を馳せることになります。
 1336年に建武政権が瓦解して内乱が本格化すると、正円の跡を継いだ淡輪助太郎重氏は両勢力から誘いを受けますが、尊氏側についています。足利氏譜代の畠山国清が和泉国大将として派遣され、籾井城で挙兵した時以降、淡輪一族は北朝方につき、泉南各地を転戦しています。
 また父重氏を継いだ淡輪助重も1347年四条畷の合戦や春木谷合戦に参加し、軍功をあげています。
 以上のように一貫して幕府方(北朝)にあった淡輪氏でありましたが、「観応の擾乱」を境に一大転機を迎えます。この混迷を深めていく政治状況の中で、助重は立場を転換し南朝方に身を置く事になります。この背景には1350年後村上天皇の南朝参陣を誘う綸旨や楠木正行(正成の子)戦死後、南朝主将として跡を継いだ弟正儀(正成3男)の武家方内紛に乗じた北朝方有力現地武士集団淡輪氏への巧みな勧誘、何より「正平の一統」直前の、尊氏の南朝帰順の動きを察し、南朝有利と見た助重の一族の存亡をかけた慎重な政治的判断があったものと思われます。こうして助重ら淡輪惣領家は南朝方に、分家である淡輪孫五郎重継(助重の伯父)は、万一の淡輪一族の生き残りをかけ、惣領家と別れ北朝方につくことになります。
 これ以降も様々な戦いに参加し、南朝奉公の恩賞として官位の授与(助重改名忠重を左衛門少尉従五位下)と、淡輪庄東方領家職三分一を「料所」として知行することをみとめられています。

 淡輪氏が本拠を置く泉南地域は「観応の擾乱」とこれに続く「正平の一統」の影響で徐々に南朝によって侵食されていきます。これはほぼ1370年代中ごろまで続いた状況のようです。しかしこれらの余波で一時的に勢力を盛り返した南朝軍も徐々に追い込まれていきます。
 楠木正儀はこの劣勢の中で南朝の対面を傷つけないように何度も和平交渉を繰り返しますが、1367年に交渉決裂後、対北朝強硬派の前に立場を失い、後村上天皇没後、主戦論者の長慶天皇が即位すると立場がなくなり、1369年幼い3代将軍義満の幕府管領細川頼之に誘われ楠木正儀は幕府軍に降りました。淡輪一族が南朝に転身してから頼った楠木正儀は、和泉・河内・摂津の国司と守護を兼任する地位にあったようです。幕府方は彼を冷遇することなく、和泉・河内の国司と守護の権限を認め、攻略困難なこの地域の南朝対策にあてました。
 ところで淡輪一族は独自の利害関係と政治判断で一族の存続をかけて、立場を決定していたようで、正儀と同じく北朝方に転身しませんでした。しかしこの時代の次々と起こる上部や他の現地武家集団の寝返りやまたその寝返りで、惣領家の中でも、助重(忠重)の三子淡輪左近将監光重のように北朝方に帰順する道を選択するものも出てきました。
 この間、淡輪氏は忠重の一子長重(光重の兄)が左衛門太夫や因幡守、因幡左衛門尉の官職を、二子宗重(改名重宗)が左衛門尉などが授与されます。淡輪隼人佑(長重の子長次)は上賀茂社領箱作庄の公文職と新家八郎入道の跡職を、長重は河内国花田六郎の跡職が与えられています。このようにして泉南地域は南朝勢力の影響力を灯し続けてはいたものの、時間の経過とともにその形勢の不利にはあらがえず、南北朝統一の1年半あまり前の1391年、南朝最後の後亀山天皇が当時惣領の淡輪重隆を兵衛少尉から左衛門少尉に転任させるのをもって、これがこの地域の南北朝時代の終焉をいろどる最後ものになったといえます。

 この南北朝の動乱によって、淡輪庄を含めて現岬町域の荘園群の荘園領主の支配は危機的状況に陥ります。天皇家が2つに割れたこともあり、また現地を仕切っている武士集団自体の寝返りやそのまた寝返りによって、その荘園はあるときは南朝方に、ある時は北朝方にとなり、継続的な支配と経営は困難になります。結局現地を押さえている地元の武士やそれを統括している守護に頼ることでしか、荘園領主の年貢収納は実現しないことになります。既存の支配秩序は大混乱をきたし、現地ではこれを機に成り上がろうとする武士や土豪たちの私利私欲に任せた乱暴狼藉が横行する事になりました。この混乱を押さえ込む権力がどこにも存在しない一種の無政府状態を生み出してしまったことになります。荘園領主たちは自衛力に頼るか、混乱の元凶である地元武士や土豪、守護勢力に頼るしかなくなるという相矛盾する選択をせざるを得ない状態になりました。ことに1352年8月に一代限りとはいえ、北朝により和泉国が年貢を荘園領主と折半し、打ち続く戦乱の兵糧料として残りを武士に支給する「半済」の適用を受けたことにより、地元の武士に荘園・公領を侵略する口実を与える結果になり、ついには幕府の「応安半済令」で公認され、荘園領主の現地支配に壊滅的な打撃を与えることになりました。
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