9)大正時代
第一次大戦による好景気は岬町にも波及しましたが、淡輪村の精工舎以外は従業員50名以下の小規模工場ばかりでした。しかし早くから淡輪遊園などが設立されて観光地となっていた上、大戦の好景気で50名以下とは言え工場が多数誕生していたことにより、住民の生活が次第に贅沢になり、伝統的な美風がそこなわれ、村の雰囲気が変化していきます。この時の社会の変化に対応(風潮を是正)するため、淡輪村が隣保組合を設立します。組合長には村長が、副組合長には助役が就任し、講演会や婦人講習会などが催されました。また同じく村長を組合長にした「共励貯金組合」も設立されました。「貯金デー」にみんなで貯金を行い、村の信用組合に預金される仕組みになっていました。淡輪村でこの運動を推進したのは、1921年村長に就任した辻利吉でした。彼は1942年まで村長の職にあり、「全村運動会」などを実施し、村内の融和を第一に考えた村政を行い、昭和に入った頃には泉南随一の模範村と称せられるようになりました。
大正から昭和にかけては、各村で体制の立て直しを行った時期で、1898年4月には「淡輪村漁業組合」がうまれ、主なものだけでも以降1906年淡輪村農会、1914年淡輪村青年団、1919年淡輪村信用購買組合、1924年淡輪村教育会、1929年淡輪村婦人会、1930年淡輪村農事実行組合などがうまれました。これらは職業別・年齢別・性別によって組織され、村民の誰もがどれかの会員であるということになり、それまで上層の人々によって運営されてきた村政が、中流以下の人々の発言力が高まり、若者や女性の役割も重視される新しい傾向に対応したものとなりました。
生活も段々便利になり、淡輪村にしかなかった郵便局も他の村に設置されたり、電報の取り扱いも始まりました。電話は淡輪村の場合、1920年(大正9)ごろ登場しますが、普及は微々たるもので1936年(昭和11)になっても729戸中65戸に過ぎませんでした。自転車は1923年に30台であったものが、1936年には273台とこちらは飛躍的に数が伸びました。
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