淡輪 ときめきビーチ   本文へジャンプ
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7)江戸時代

 徳川幕府成立以降、岬町域は谷川藩領・大和御所藩領という桑山氏の支配下にありましたが、寛永7年(1630)に幕府領となりました。幕府領は勘定奉行配下の代官が支配を受け持っており、まず伊丹理右衛門が、次に寛永19年からは彦坂平九郎が代官を担当しました。その後代官から役知となり、それを下に記述しました。下記はいずれも譜代の大名です。
 1662年 青山因幡守宗俊(大坂城代)信濃国小諸の知行地から
 1678年 太田摂津守資次(大坂城代)
 1684年 土屋相模守政直(大坂城代)
 1685年 土屋相模守政直(京都所司代)
 1687年 土屋相模守政直(老中、土浦藩主)

 上記の通り、土屋相模守政直が老中に昇進し同時に土浦藩主(茨城県土浦市)となっても政直の所領はそのまま継続し、代々土屋氏が継承していくことになりました。
 和泉国は全体に中世の土豪の流れをくむ有力な農民が多く、彼等を無視して強引に支配を進めることは困難でした。それで桑山氏以降の地元に本拠をおかなくなった領主(この場合淡輪領主土屋氏)はなおさらでした。それで領主は有力農民を「在地代官」や「大庄屋」に任命し、苗字帯刀の特権を与える代わりに日常の領地運営にあたらせました。
 土浦藩では大坂上町の南瓦屋町に置かれた蔵屋敷を中心に年貢の徴収など主な任務を行いました。幕末期には海岸防備のため淡輪村に陣屋が設けられました。なお淡輪村での「大庄屋」は川村喜左衛門が任命され代々引き継ぎました。
 
 江戸幕府は長く鎖国政策をとってきましたが、時代も下ってくると異国船の接近が相次ぎ、当地方も海防の必要が迫られました。それでも1853年ペリー来航後も江戸海防に追われていた幕府から指示は特にありませんでした。そこへ1854年ロシア海軍提督のプチャーチンの軍艦ディアナ号が天皇の住む京都に近い大阪湾に進入してきました。もちろん大変な騒ぎになりましたが、当時の大坂城代土浦藩主土屋采女守寅直は沿岸を警護させ下田に回航するよう話し、事なきをえました。
 現町域においてはすでに谷川湊に勤番所と御番所を置いていましたが、大阪湾の防備が急浮上してきたので、翌年の1855年に谷川村の観音崎と箱作村に台場を設けることになり、攘夷論の高まりとともに、その後も1861年淡輪村の黒崎、1866年谷川村の豊国崎にも台場が設けられました。同年淡輪村に勤番所がおかれ、その機能を吸収して後に淡輪村内の別所村を中心に馬場も鉄砲稽古場も付設した大規模な陣屋が設けられます。これに伴いそれまで土浦藩は飛地領の支配は在地の大庄屋に任せていましたが、大阪蔵屋敷から奉行や泉州代官が陣屋詰め役人として引っ越してくることになりました。そして施設の充実が行われたばかりではなく、軍備増強のため領民による郷兵の組織化も図られました。1863年には「大砲御筒浚(おおづつおつつさらえ)」という大砲の稽古が行われました。大庄屋や庄屋のもとで非常時に対するマニュアルも作られ、しばしば各種稽古が行われていたようです。郷兵には藩から「非常手当」として金品が支給され、名字帯刀を許されるものも出てきました。
 このことは兵農分離に基づく身分制の枠を崩すものであり、これらの事に加え外国船の出現により領民たちは時代が変わる息吹を感じだすようになってきたのかもしれません。

 1854年開国を契機に譜代大名でもあり水戸藩と親戚関係にあった土浦藩は攘夷に藩論は統一されます。1867年に大政奉還があり、幕藩体制は終わりをつげ、その混乱を防ぐため陣屋に郷兵などが詰め警備に当たりましたが、当地域はさほど混乱もなく推移したので陣払いが行われました。
 1869年に版籍奉還があり土浦藩もそれに従い、藩主は一行政官として知藩事に任命されました。廃藩置県に先立つ1870年には土浦藩飛地(現岬町域)は堺県に編入され、陣屋詰めの藩役人は土浦に帰郷し、長く続いた土浦藩の支配は終わりました。淡輪村陣屋の廃棄時期は不明ですが、一部は深日の金乗寺に移築されているようです。なお陣屋のあった淡輪別所の東の医王寺跡には当地で亡くなった土浦藩士とその家族の墓が残されています。
医王寺(廃寺)跡の土浦藩士墓地
(注:医王寺城跡ではない)
深日の金乗寺(深日御坊)
(本願寺第8代蓮如上人が紀州に行く途中一宿)
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