淡輪 ときめきビーチ   本文へジャンプ
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 はじめに  前文  先史〜縄文・弥生〜古墳 時代
 〜平安時代  鎌倉時代  南北朝時代  室町時代
 織豊時代  江戸時代  明治時代  大正時代
 昭和時代  現代
1)先史〜縄文・弥生〜古墳 時代
 
 前章で見てきました年代を念頭に、古代の遺跡はこの辺では淡輪地区に集中しているため、その代表的な2つの古墳から紹介からしてみたいと思います。
@ 宇度墓(うどはか)古墳 ◆現地説明板◆
 南海本線「淡輪駅」の大阪方面行きプラットホームに立てば、すぐ隣接して見える全長170mの5世紀後期の築造とされている前方後円墳です。駅より歩5分。堺市にあるニサンザイ古墳の築造年代に近く、別名淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれています。また次に紹介する西陵古墳ともども河内や大和にある大王墓に匹敵するほど大きい。第11代垂仁天皇第2皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、明治14年に宮内庁の管轄下になった「陵墓参考地」です。築造から考えれば、実在すれば4世紀の人物らしい五十瓊敷皇子の墓ではありえませんし、実在の人物であるかどうかも不明です。宮内庁の管轄でもあるため、その他あまり多くはわかっておりません。岬町はすぐ南の紀ノ川を渡ればもう紀州和歌山市であるため古墳の被葬者も「紀」氏とゆかりの人物が葬られているのではないかとも想定されています。岬町に近い紀ノ川北岸には大谷古墳など、数多くのそれら古墳がみられます。
 なお垂仁天皇の父は第10代崇神天皇で、崇神(すじん)は現代日本の学術上、実在可能性が見込める最初の天皇で、かつ神武のモデルであろうとも言われています。

A 西陵(さいりょう)古墳 または(にしのみささぎ)古墳 ◆現地説明板◆
 南海本線「岬公園駅」から歩7〜8分。岬町のみならず泉南部でも最大の前方後円墳になります。墳丘に登ることは可能。1921年に、後円部墳頂から凝灰岩製長持ち形石棺の蓋石が出土し、周囲に砂岩の石材がみられることから、竪穴式石室内に凝灰岩製長持形石棺を納めた構造と推測されている。この古墳は5世紀初頭から中ごろ(420〜440年)に築造されたと推測でき、1921年に国史跡に指定されています。西ニサンザイ古墳とも呼ばれ、紀小弓宿彌の墓であろうと言われています。「日本書紀」では第21代雄略天皇九年三月の段に、新羅を攻める際、病没した紀小弓が「田身輪村」に葬られたとあります。また「朝野群載」に記載があり、淡輪集落内に船守神社があるので、紀船守の墓という説もあります。
 なおこの「田身輪村(たむわむら)」が淡輪地名の由来と見られ、中世には「淡輪庄」が現れ在地豪族の淡輪氏(後述)が居住しています。時代を少し下った「信長記」には「丹和・谷之輪口」が載り、太閤検地で淡輪村が生まれたとされます。

 これら以外にも中小の古墳が多数あり、古墳時代中期の西小山古墳と呼ばれる大きな円墳や上記2基の大古墳があったことは、この時代の岬町、特に淡輪地区が古代国家の中でも大きな位置と役割を占めていたということがうかがわれます。

 時代は遡りますが、以上の他にまず歴史を語る上で欠かせない淡輪最古の遺跡があります。それが縄文時代後期(〜紀元前3世紀)の「
淡輪遺跡」です。
 1970年にサヌカイト製石鏃が発見されて、現在までに縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器、埴輪、瓦器、陶器などの破片とともに、石鏃、石錘、石槍、石包丁などサヌカイト製石器類が約 500点発見されています。現在はこれらの遺跡の上に民家や建物が多く建ち、遺跡だということがわかりません。ただ縄文時代から弥生時代にかけての遺跡と認識されています。サヌカイト等に続き、以後次々と土師器、須恵器、埴輪、瓦器などが出土していることから、長期にわたる遺跡であったろうと考えられています。

 さて神話から歴史に移る過程で当地方は、隣の「箱作」の地名からも古墳の石棺がつくられた土地とも言われ、石作連氏(いしつくりのむらじ)の本貫とみられるようです。
 また日本書紀の「垂仁天皇紀」に五十瓊敷入彦命(五十瓊敷命・いにしきのみこと)が「菟砥川上宮(うどがわ かみのみや)」で剣を一千口作り、石上神宮(いそのかみじんぐう)に納めたことが記録されているように、古来より石工の土地であったようです。徳川末期から明治初期にかけては、堅固で光沢の良い和泉瓦と言われる産業が栄えたことも知られています。
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