淡輪 ときめきビーチ   本文へジャンプ
目次 (文字をクリック)
 はじめに  前文  先史〜縄文・弥生〜古墳 時代
 〜平安時代  鎌倉時代  南北朝時代  室町時代
 織豊時代  江戸時代  明治時代  大正時代
 昭和時代  現代
5)室町時代

 1392年義満によって南北朝は統一され、和泉国の現地支配も秩序を回復し安定していきました。混乱を極めた和泉諸荘園の支配所有関係を再整理し始め、淡輪庄でも淡輪氏が所持する下司・公文職をめぐって審理が行われました(1396〜1403年)。これらは将軍家の全国的専制権力を基礎固めする荘園政策の1つとして行われました。
 幕府が安定期に入った4代将軍義持のもと、1408年細川庶流二家が和泉守護権を2つに分割した「半国守護」にそれぞれ任命され、1415年細川両守護に守護職の任料として和泉国国衙領の半分が預けられる「守護領国制」と呼ばれる支配制度が確立されます。これは「守護-守護代-郡奉行-郡代」という指揮命令系統をもって、地域単位「国-郡-荘・郷」で支配を行うものでした。鎌倉時代には一介の軍事的官吏の職だった守護の職権を拡大して、裁判執行権・警察権・臨時税徴収権・土地給与権などを含む領域的な支配権がこれで確立されました。南北朝内乱を勝ち抜いてきた和泉国の地元武士たちは、こうした細川両守護の領国支配のもとで次第に両守護に編成され、領主権が保障されるようになったようです。それとともに「郡」が政治的な支配の単位となり、各郡ごとに地元武士集団の組織化がはかられるようになりました。
 その武士集団にも様々な出目がありました。鎌倉時代以来の地頭の系譜を引く大鳥郡の田代氏や、淡輪氏や日根野氏のように地方の豪族あがりで鎌倉幕府の和泉国御家人だったもの、そして和泉国国衙の役人だったものです。更にもとは現地に住まず京都などから年貢をとっていただけの領主の庶流などが、南北朝の動乱で領国経営のため自ら現地に赴き屋敷を構えて土着し次第に地域性を強めたものです。彼等はやがて等しく「国人」と呼ばれるようになりました。疲弊した上部組織に依存する事もできなくなった国人は、互いの権益を守るため結束を強めていきます。例えば、和泉の国人たちが連名して淡輪因幡守長重の領主権を幕府に証明した文書が残されています。
 この室町期から次の織豊期にかけての淡輪の国人には、真鍋家・田賀井家(多賀井家)とこれまで見てきた淡輪家の3家がいたと考えられています。真鍋家の出目は応永年間(1394〜1427)に備中真鍋島(瀬戸内海)から真鍋五郎衛門貞縄が淡輪に移住してきたものと伝わっています。多賀井家は真鍋家の家人として真鍋一族と行をともにしたことが記録に残されています。多賀井家は最後は加藤嘉明に仕えたということです。

 しかし以上のように確立した領国支配も安定期は長く続きませんでした。1647年、後の戦国時代へと続く応仁の乱が勃発したからです。和泉国は大乱のきっかけをつくった畠山管領家が守護職をもつ河内と紀伊に挟まれており、早くから戦乱の渦中に巻き込まれていきます。和泉守護の細川家は本家の細川勝元が東軍の総帥だったため東方軍として参戦しました。淡輪次郎左衛門尉も激戦に直面しています。次第に戦いの舞台は京都や河内から和泉まで波及し、その内に和泉国は軍事指揮権を代行する和泉国守護代を討ち取られ、守護既存の指揮命令系統は寸断され、領国支配体制は大打撃を受けてしまいます。打ち続く戦乱で力を失った将軍家と守護の権威と軍事力に期待しても対処できなくなっていたのです。
 和泉国の戦国時代は細川両守護の権力と、根来・粉川の寺社勢力を含めた隣の紀伊国の畠山尚順との熾烈な抗争で開幕しました。すでに守護体制はほころび始めていましたが、当時国人は城持衆と呼ばれ、党をなして互いに助け合い組織を作り、和泉国が乱れた際には「衆中」として集団で武功をあげ対処することになりました。すなわち「和泉三十六人之郷侍衆」という連合組織をつくり、両守護支配の残影を濃く残した「半国触頭」制という統率機構を持って集団で和泉国支配に当たろうとしたのです。しかし中には淡輪氏のようにこの組織には属さず、真鍋貞縄から6代目の主馬兵衛貞友(間鍋主馬兵衛尉)が淡輪から淡輪大和守徹斎入道においだされるという地域間の紛争もあり、和泉国は南北朝時代の時と同様に荒れに荒れたのでした。そしてそれは天正年間の織田信長の来襲、さらに羽柴秀吉による紀州攻めの時代まで続きます。
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