10)昭和時代
昭和に入ると大恐慌の波に世界中が飲み込まれますが、淡輪も例外ではなく、淡輪村は1934年度の経済更正指定村に選ばれています。詳しい内容はわかっていない部分もありますが主なものとしては、開墾組合設置・耕地整理組合設置・二毛作の拡大・肥料や網などの自給化・漁礁の設置・各種物産の共同販売による仲買の排除があります。また1935年大阪府下最初の水産指導所が淡輪村に設置されました。経済更正運動が進められる中、観光開発にも力が入れられました。淡輪遊園は大正期を通じてツツジや桜が植えられて名所となり、魚釣の名所としても名をあげました。さらに村内に湧き出る冷泉を利用した潮湯と運動グラウンドを中心とした淡輪遊園拡充策を南海鉄道とともに計画を進めました。愛宕山の海岸3000坪による「淡輪温泉」は1937年3月に開業します。
1936年には南海鉄道寺田甚吉社長を代表取締役とする株式会社大阪ゴルフ倶楽部が設立され「淡輪コース」の建設が始まりました。こうした新たな観光開発で発展が見込まれた淡輪村は1937年4月に村の観光機関として淡輪村保勝会が発足し、1939年都市計画法の適用を受けることになります。
以上のように不景気の中でも順調に発展するかに見えた当地区でしたが、太平洋戦争が始まり、次第に戦争が激しくなる中、岬地区も軍事色一色になり更に変貌する事になります。特に軍需工場が建てられた深日や多奈川は人口も増え町制に移行し、そのための都市計画がすすめられました。
|
|
現ゴルフクラブ入口(写真中央に「灰賦峠」説明板) |
南海 みさき公園駅 |
1941年4月日本の小学校は一斉に国民学校と改称されました。戦時期には小学校を卒業した青年に対する軍事訓練の強化する義務制の青年学校もできました。
1944年にも入ると、サイパンが落ち日本本土への空襲も確実視されるようになると、大都市の国民学校の学童集団疎開が始まり、岬地区の各町村は大阪市長橋国民学校の児童を受け入れ、淡輪村は西林寺・西教寺に4年生65名が収容されました。西教寺は全体の本部にも当てられました。1945年に入ると岬地域にも戦火が及び、これら疎開児童も島根県に再疎開していきました。同年7月25日と28日には岬地域も本格的な空襲に見まわれ、8月15日の敗戦をむかえます。
アジア太平洋で戦死した岬の人々は470名であろうと言われています。
近畿地方を担当したアメリカ占領軍は、自らが投下した機雷のため大阪湾が使用できなくなっていたので、和歌山に上陸して陸路で大阪神戸に向いました。このとき孝子峠を越えて北上し岬地域を通過していきましたが、装甲車やジープが列をなして通過していく様子はまだ記憶に残っている人々も多いと思われます。
さて戦後はGHQによる民主化を基調とした改革が行われ、1946年10月憲法改正(施行は翌年5月3日)に先立って、1946年9月市制・町村制の改正も行われ、選挙権の拡充・直接参政権・首長公選制の導入などがはかられました。さらにこれらは手直しされ翌年地方自治法となり、これを受けて1947年4月5日には全国一斉に初の住民による市町村選挙が実施されました。
教育制度も1947年3月に新憲法の精神により、教育基本法・学校基本法が公布されました。戦前の複雑な学校体系は、6・3・3・4制の単純化がはかられ、国民学校は小学校と改称し、青年学校は廃止されました。各市町村に新制中学校が設立され、淡輪中学校は生徒数の少ない孝子村の学区も併せ持ちました。1949年になると深日・淡輪・孝子の三町村は学校組合を作り新たに組合立泉岬中学校を設立しました。
更に占領下の諸政策で特に大きな変革が農地改革でした。そして農地改革の成果を活かし農業経営の合理化・近代化を促進するために1949年大阪府は「大阪府農地交換歩合5カ年計画」をたて、このモデル10箇所の1つが淡輪村になりました。
占領下の改革は地方自治体の権限を大きく拡大した一方で、それに見合う財政負担が増え、小規模自治体は財政難となります。そこで大規模な町村合併政策が推進され、1953年に3年間の時限立法として町村合併促進法が成立します。1955年2月12日深日町・多奈川町・淡輪村・孝子村の4町村の合併協定が調印されました。内容としては継続事業の新町への移譲、消防団・青年団・婦人会など各種団体の一本化、小中学校の学区・農業協同組合・漁業協同組合は現状のままとすること、などを定めていました。こうして同年4月1日から4町村は廃止となり今日の岬町が発足することになりました。設立時の岬町役場は深日の青年会館(旧青年学校校舎)で、初代町長は多奈川町長であった亀崎憲一氏が就任しました。
岬町の成立に伴い、1958年多奈川中学校と泉岬中学校が統合されて岬町立岬中学校が成立し、1979年府立岬高等学校の誘致に成功しその開校を実現し、各地区小学校や幼稚園の新校舎も相次いで完成しました。なお、在籍児童数の減少に伴い、孝子小学校は休校となりましたが、その跡の校舎は現在「岬の歴史館」として、岬町の歴史と文化を学び体験できる拠点となり町民の生涯学習の場として有効活用されています。本書に続けて訪問することをお奨めしたいと思います。
|
|